国立新美術館で「リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s-1970s」を見てきました。
1920〜70年代に世界各地で建てられた住宅の名作を通じて、「住まうこと」の本質を問い直す展覧会。
個人的には、大阪万博よりずっと見たかった。
ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ルイス・カーン……
展示はどれも派手さはないけれど、設計者たちの「問い」がずっしりと詰まっている。図面、模型、映像、家具や調度品のひとつひとつが、住む人の暮らしや思想と密接に結びついていて、まるで住まいそのものが実験装置のように見えてきます。
近代建築の黄金期と言われるこの時代、時代を先取りしたこれらの住宅には、設計者の「機能」「構造」「空間」への強い探求心と哲学がにじんでいました。
中でも、ル・コルビュジエのレマン湖畔の家のプランや、菊竹清訓のスカイハウスの矩計図には、設計者の心を想像しながら没入してしまいました。
もうひとつ感じられるのは、住まい手や発注者にも、自由な発想と見識があったのではないかということです。
こうした近代建築をさらに発展させた現代の住宅は、断熱や気密、耐震といった性能が格段に向上し、設計や施工も非常に洗練されてきました。
選べる素材や設備も豊富で、どの家も強く美しく高性能になっています。
けれど、それと同時に感じるのが、どこか「均質化された空気感」です。
デザインや間取りのバリエーションは豊富ですが、その根っこにある人の暮らし方や欲求の振れ幅は、「好み」や「スタイル」の内側に納まっていると感じます。
SNSの普及もあって、「他人より良く見せたい」「失敗したくない」「後悔のない家を建てたい」という気持ちは、すごく自然なこと。
でも、その意識が強くなりすぎると、「全部入り」で「正解っぽい」けれど、どこか無難で似たような家ばかりが並ぶようになってしまう。
それは、家が“買うもの”である時代の、ひとつの帰結なのかもしれません。
今回の展覧会に並んだ住宅たちは、技術的な困難さと、失敗や不便さすら内包しながらも、強い個性と芯のある暮らしのかたちを追い求めていました。
空間の余白や、住まい手の工夫を受け入れる自由さ。
家は暮らしのすべてを解決するものではない。
それらはきっと「消費される家」ではなく、「生み出し、育っていく家」だったのだと思います。
あの静かな展示空間で、改めて考えました。
家を“選ぶ”のでなく、人の暮らしを“考える”ことの楽しさを、忘れずにいたいと。